我が家のネコは、名前がネコ。
娘のところに赤ちゃんが生まれて、連れてこられたネコは、名前どうしよう?と思っている間に、ネコと呼ばれて結局ネコになってしまいました。
そんなネコですが、これがなかなかの切れ者で、毎晩私の布団の中に入ってくるのですが、毎晩かと思いきや、ちょっと暖かい日には、布団の中ではなく、布団の上。
もっと暖かい日には、2階の私の部屋へあがってくることもなく、リビングで夜を過ごしているらしい。
ほんの少しの気温差が分かっているらしく、自由に本能のままに動けている・・・なんとも羨ましいです。
安心しきって眠っている姿は、とてもかわいくて、ふわふわ感で癒されます。
「安心できる居場所」とか「安心・安全の基地である家庭」が人には必要であるなどというけれど、実際どうなれば安心感が得られるのだろう?我が家のネコのように本能のままに何も考えずに過ごせたら、どんなにいいだろう!などと考えてしまいます。
自由に言いたいことを言えるかといえば実際にはそんなことはないわけで、ネコのように自由ではいられない・・・。
でも、延々と真っ白なところに絵を描くよりも、ちゃんと端があって枠のある画用紙の方が絵を描きやすいし、ほんとにただの延々と続く真っ白だったりしたら逆に何も書けなくなって途方に暮れてしまいます。
どうやら、私たちの持つ自由で安心できる感じは、何らかの枠があってのこと、ちょっと不自由であるけれど自由である感覚なのでしょうか。
ある方が「クラブのみんなと集団で動いていた時に、突然、あっ、自分は自由なんだって感じたんですよ」と言った言葉を思い出します。
その感覚は、枠はあるけれど、おそらくは私たちの内側からでてくるもので、様々なこうあるべきから離れ、自分で選択できる、自分で選んで、自分で決めていいということなのだと思います。
それが自然とできる場が、その人にとっての安心できる場なのかもしれません。
そして、温かいごはんと暖かい布団と、お帰りなさいの言葉や、帰れば、自分の好きなものがある、それが枠となって、安心できるし、荒波や様々な困難があるとしてもそこから船出できる、戻ってこられる基地となるのだろうと思います。
でも、そんな当たり前のことさえ、得られないでいる人もいます。
自分は、「生きてていいんだ」と思えない人をたくさん知っています。本当に私は無力だと感じることも多いですが、せめて、ここに居て欲しい、生きていていいと伝えたいです。
チーフスタッフ 井利由利
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