withコロナを目指して、茗荷谷クラブでも少しずつ工夫をしながら活動範囲を広げています。
10月にはBBQ、11月には体育館でのスポーツ大会、そして12月にはクリスマス会、2月にはライブができるカフェを借り切っての文化祭イベントを計画しています。
イベントは茗荷谷クラブでもとても大事にしている活動です。
コロナ前は一泊旅行を年2回行っていたのですが、これはまだ実行できずに日帰り旅行として、近場へ出かけています。
ハンナ・アーレント(1906-1975ドイツ出身の哲学者)が「人間の条件」の中で「労働」と「仕事」と「活動」の違いについて書いていたところがあるのを思い出し、「活動」の意味や意義について再度考えました。
活動:不特定性と多数性
唯一、私が何者なのか?の返答を与えることがでる。
唯一、過ちを赦すことが可能。
= 「ものや物質の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力」。
(ネットから持ってきました)
ここからは、ハンナの言葉に影響されつつ、私が日々の活動、特にイベントで感じている私見です。
「活動」は多数性を条件とし、多数の人がその違いを保ちつつ、相互を認め合うことになります。
人は、活動においては平等でしかも異なる存在としてその独自性を手に入れることができます。
「仕事」「労働」との違いはここにあり、その意義もここにあるのではないかと考えます。
例えば、唯一無二の存在であるAさんは、仕事や労働では、一つの駒としての意識を持たなければならない事態に会わなければならないこともあるでしょう(この傾向は、仕事における「マニュアル化」によって加速しているように思います)。
活動における「多数性」は、多数であっても個々が自由で独自であるという余地を残します。
茗荷谷クラブのある方が「みんなと一緒にいても自分は自由なんだと初めて感じたんですよ」と言った言葉を思い出します。
多くの方が、自分でない自分にならなければならないと強いられてきた苦しさや自分がよくわからない苦しさを抱えています。
イベントはいつも多くの人が集まります。
それぞれが多数の人の中にいても自由に独自に動けて、何を生産するわけでも、物として残すわけでもないですが、人が自らの尊厳を保ち、人といることの楽しさを感じられる、私が何者なのか?の答えを言葉にならずとも感じ取ることができるものだと思います。
このような活動がコロナのために制限されてきたことの悔しさ、改めてイベントを行うことの意義、そして何よりも楽しさをつくづくと感じます。
思えば、コロナ前、茗荷谷クラブでは、朝、みんながお部屋に集まってくると、必ずお茶を出して、「今日のお茶は入れ方が上手でうまいですね」とか「ちょっと高級で美味しい紅茶ですね」「ああいい香りです」なんて言葉を交わしながらゆっくりとした時間を過ごしました。
そして、みんなで料理を作って食べることもたくさんしました。
何をしても何もしなくてもいられて、自然と一人ではなく多数で何かをする「活動」へと時間が流れます。
みんなでお茶を飲んだり、ご飯を食べたり、さまざまなイベントができる日常に少しずつ戻していきたい…と思います。
チーフスタッフ 井利由利