いきなりだいぶ秋めいてきました。
暑い夏は嫌だと文句を言っていたのに、涼しくなるとなぜか気分が沈みがちになるのは私だけでしょうか?
そこで今回は、再び(?)元気が出る歌を紹介しようと思います。
俵万智さんの「サラダ記念日」にある歌
「寒いね」と言えば「寒いね」とこたえてくれる人のいるあたたかさ
いかがですか?
人と人が顔を合わせて、ほほ笑んだり、目と目で何かを通じあったり・・・
表情から伝わるものや声から伝わるその人の雰囲気とかそういうものが、少しずつ失われて私たちの共感性やつながりの感覚が薄れていると言われています。
この人も毎日疲れているのかなもたれる頭に肩貸す車中 (高校1年生15歳)
家族だよばあちゃんずっと家族だよ「誰?」と言われても変わらぬ絆 (高校3年生17歳)
素敵だな!と思います。人を想う気持ちを持ち続けていたいなと思います。
そんなことを想っているときふと、「共感性」って何だろう?という問いが生まれ、改めて考えてしまいました。
なぜ、共感される(自分の気持ちをわかってもらえた感覚)と、人はエネルギーをもらえるのだろうか?そもそも共感するって何だろう?
人の話を聴くことを生業としている私としては重要な問題です。
共感性には「情動的共感性」と「認知的共感性」があるそうです。
「情動的共感性」はいわゆる「空気を読む」に近く、相手の情動や感情を自分の情動や感情に写し取り、まるで自分事のように感じるものです。
「認知的共感性」は簡単に言えば、「相手は悲しんでいるのだ」と理解するプロセスです。
「情動的共感性」はその人との関係性が、自身の感情とリンクして極端になる可能性もあり、ズレたり空回りすることもあります。
「認知的共感性」を持ってそれをセーブし、どこかで冷静な目を持っていないと、人はわかってもらえたという感覚を持つことができないばかりか、「思い込み」や誤解が生じることになります。
両方の目が必要ですね。
人にエネルギーを与える共感性の高い人にはなりたいのですが、完璧に他者の視点に立つことはできないことを認め、「わからない」ことは「わからない」と言い、「もっと聞きたい」と伝えていく方がいいのだと思いました。
聞き直すことに躊躇したり、わかったつもりにならないことが大切ですね。
話をよく聴いてもらうと―もちろん話したくないときは話さなくていいし―それでちょっとすっきりしたり心が軽くなったりします・・・
わからないかもしれないけれど、その人がそこに居て、わかろうとしてくれたことが嬉しくてエネルギーをもらえるのかな・・・・
それが「思いやり」なのかもしれない…です。
9月5日(月)には茗荷谷クラブカフェレオンで「哲学カフェ」をやりました。
答えは出なくても、問いを立てて、こんな秋の夜長に考えていくことも実は結構楽しいですよ。
そうすると「思いやり」って何だろうとまた問いが出てきてきりがないですが…(笑)。
チーフスタッフ 井利由利
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