東京都の感染者数は増え続けており、予断を許さない状況です。
でもクラブにまたみんなの笑顔が戻ってきたことに、とても励まされています(茗荷谷クラブの感染対策については、詳しくは茗荷谷クラブHPをご覧ください)。
今後、この状況が続くことがほぼ確実と思われ、コロナ禍といかに付き合っていくかが課題です。
それにしても、この怒りにも似た不安感といったいどう付き合えばいいのでしょう?!
考えたことが2つあります。
まず1つは、コロナ感染に対して、コミュニケーション不足に気をつけたいということです。
様々な憶測や不安をあおる情報に振り回されないように、常に冷静に、自分の頭でしっかりと考え、できうる限り正しい知識を求めていきたいです。
人ときちんと話すと自分の考えがまとまり、冷静になれます。
「コミュニケーションに100%はあり得ない」と言われます。
私たちは人の話を聞いているつもりでも、自分の独自の認知のフィルターを通して、人の話を聞き解釈し、それを人に伝えます。
相手もまた自分の独自の認知のフィルターを通して理解します。
つまり「二重の」フィルターを通していることになります。
独自の認知のフィルターとは、その人の経験、感性、知識、環境などあらゆるものが影響しています。
だからこそ「自分と他人は違っていて当たり前」という心構えでコミュニケーションをする必要があります。
また私たちが道ですれ違った人を全部認識できないように、そもそも私たちの感覚器官には能力の限界があります。
どうしても自分に都合のよい見たいものだけを見る、聞きたいことだけを聞くという習性があります。
また、思い込みで不要に不安を強めてしまうこともあります。
そのことをいつも謙虚に心していきたいと思います。
思考停止にならず、わからないことはわからないと認め、もっと分かち合いたいから、コミュニケーションを続けて常に確かめ、今できることをやっていきたいと思います。
2つ目は、「合成の誤謬(ごびゅう)」についてです。
哲学者の内山節氏の記事(6月28日東京新聞の「時代を読む」)によれば、「合成の誤謬」とはもともとは経済学用語で、一人ひとりの判断としては間違っていなくても、全員が同じ行動をとると誤りになるというような意味です。
新型コロナウイルス対策において、感染を防ごうと家に閉じこもり、自粛を重ねるのは一人ひとりの判断としては間違っているとは言えませんが、それを全員が実行すれば私たちの社会が維持できなくなっていきます。
独立した単体としては都合のいい行動が、社会全体としては不都合な行動になるという考え方が「合成の誤謬」という論理にはあります。
感染防止か経済かではありません。本来の目的は社会維持です。
感染防止も経済も社会維持のための手段であって、目的ではありません。
医療従事者、介護や保育、清掃、生活用品販売、製造、インフラ従事者やメンテナンスなど様々な人たちが閉じこもることなく働いて、私たちの社会を維持し、生命の営みを守ってくれています。
茗荷谷クラブや相談室の開所も、微力かもしれませんが、生きる意欲を育むために行っています。
生きる意欲のためには、人との触れ合い、アートや、音楽、レクリエーション、遊びが必要です。
メンバーの皆さんは、一人ひとり自分で考え、判断して行動しています。当然、選択は各々であり、そのことに敬意を表したいです。
思考停止に陥り、誰もが同じことをしなければならないという考えが、差別や、自粛警察などを生み出しています。
多様性の中でこそ私たちは存在します。こうでなければならない・・ではなく、私たちの生命の営みは、あらゆるつながりの中にあります。
つながりと多様性を失わず、社会を維持することに、直接・間接的に自分自身がどう関われるか、参画できるかを真剣に考えていきたいと思います。
茗荷谷クラブチーフスタッフ 井利由利
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