あけましておめでとうございます。
昨年を振り返ってみると、コロナの規制が少し緩んで、地域の人たちやひきこもりの活動をしている方々と顔を合わせる機会が増えたなと思います。
地域や周りの人との協働・連携が盛んに言われています。
協働も連携もご本人を真ん中に本人と一緒に進められなければなりません。
本人のいないところで物事を決めてはいけません・・・その根幹には、支援する側(人)と支援される側(人)がどう共にあればいいのか?が問われていると思います。
“『現代思想』総特集中井久夫”に掲載された斎藤環氏と東畑開人氏の対談を読んで、自分がなんとなく思っていたことが、わかりやすく言葉になっていて、「ああやっぱりそうだ、(思っていた通りで)大丈夫なんだ」と安堵しました。
自分なりの理解をここに書き残そうと思います。
居場所にしても、相談にしても、私たちスタッフは、心理職としての専門性といわゆる心理職ではない非専門家―地域や周りの人―とのはざまにいることができるかどうかが問われると改めて思いました。
はざまにいて、いかに周りの社会資源やケアを増やしていくか、そのソーシャルワーク的視点が必要です。
医療や心理療法の専門性も、もちろん必要です。
そのはざまにあって普通のつながりを作っていく、そのプロセスこそが、あらゆる心のケアが必要な方にとって、「癒し」となります。その心の土台が作られて「働く(広い意味での)」ところに行きつきます。
人が癒されたりケアされるってことが普通のつながりの中で起こらない限り、その方が地に足をつけて生活をし、その人なりのつながり方で、「世に棲む」(中井久夫)ことができません。
振り返れば、茗荷谷クラブは、専門家の集団であることと同時に、いかに対等に各々のスタッフが自分を開示し、個性を発揮する場であろうとしてきたか、と思います。
あえてデイケアなどのような担当制はつけずに自由に誰とでも相談できるようにしてきました。
はざまに居ることが感覚的に重要だということを私たちはずっと前から知っていて、そのことにはそのような意味があったのだと改めて言葉にすることができました。
専門性と普通のつながりがないまぜになっている、
対話を繰り返し、積み重ねていくオープンダイアローグの場です。
うまく伝わっているでしょうか?
もし、これを読んでいるメンバーさんがいたら、普通のつながりじゃないじゃんと言われそうですが・・・。
実はスタッフも悩んでいるのです・・・。
茗荷谷クラブが、どうすれば居場所になるのか?ずっとその寄り添い方の基本をメンバーさんに学ばせてもらっています。
支援をする者、される者が一緒になって生きなおしていくということはどういうことなのか、それを教えてもらっています。
そして、さらに普通のつながりができる地域づくりが課題です。
多くのひきこもりの方がいわゆるひきこもりへの偏見に苦しんでいます。
さらにそのような世間の偏見を自分の中に自己スティグマとして取り込み、逃れられなくて苦しんでいます。
声を出すことのできない多くの人たち、家族会や当事者会などに来ることができないサイレントマジョリティの人達もたくさんいます。
その声をどうすくいあげていくか、茗荷谷クラブは専門家集団の一つとして、そうした地域づくりに一役買うことができるよう頑張りたいです。
チーフスタッフ 井利由利